2020_03_31(火) 08:15

終末期鎮静を経て…父との永遠の別れ【がん患者と娘、家族の歩み】

記事投稿: ラッキークローバー

2020_03_31(火) 08:15

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記事投稿: ラッキークローバー

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2019年11月、父がすい臓がんのため、70歳で亡くなりました。

告知を受けてから1年と少しの闘病生活でしたが、父はもちろん、そばで支える家族にとっても苦しく、また様々な思いを経験した1年でした。

その中で、たくさんの治療法やその副作用、また費用や入院期間など、これまでドラマの中でしか知らなかったことや、勘違いしていたことが多くあったことに気が付きました。

それらを、テーマに沿って、実体験を基に、分かりやすく皆さんにお伝え出来ればいいなあと思い、書くことを決めました。

ただ、これはあくまでも父の場合です。

がんの種類や進行度合い、年齢など、個人差によるものも大きいですし、医療機関によっては取り扱っていないものもありますことをご理解ください。

★目次★

最後の入院

前回の記事にも書きましたが、原因不明の熱で、5度目の入院をした父。

一旦、退院はしたものの、すぐに急変し、翌日(9月26日)には再入院。

これが6度目の入院となり、そのまま父は帰らぬ人となりました。

11月8日に亡くなるまでの約1ヶ月半・・・。

この入院期間中は、本当に心も身体も、辛く苦しい時間でした。

完全看護の病院でしたが、ナースコールさえ思うように押せない父を残して自宅に帰ることができなかった母は、病室のソファで寝泊りしました。

寝不足の母が心配で、私も病室に泊まることが増えていきました。

母には、一旦自宅に帰ってゆっくり寝てもらったり、母も私も一緒に病院に泊まって、父と3人で病室で過ごすことも多くなりました。

だんだんと上半身の動きも鈍くなっていき、オムツをするようになり、自分が今どこにいるのかも、分かったり分からなかったりしながら、目に見えて衰弱していく父の姿を見るのは、私たち家族にとっても、生き地獄のようでした。

けれど、この1ヶ月半があったからこそ、今、私は前を向いて生きていくことができているように思います。

最期の最期まで、父は本当に粘り強かったし、主治医も看護師さんも驚くほどの生命力で、その力強い生き様は、見ているだけで心に突き刺さるものがありました。

15回に渡って書いてきた父の闘病記録も、今回が最後になります。

父の頑張りを、どうか最後まで見届けてくださると嬉しいです。

終末期鎮静とは?

6度目の入院の間に、父は下半身不随になり、自分の力で座ることも、車椅子に乗ることさえできなくなってしまいました。

元々腰痛持ちなので、ベッドに寝ているだけでも背中や腰が痛み、がん独特の、身の置き所がない痛みと相まって、数分おきに腕の力を使って身体をねじり、痛みと闘う父。

母が、痛む場所をさすったり、叩いたり、寝返りをうつのを助けたり・・・、言葉の通り、本当に付きっ切りで父を支えました。

医療用麻薬の量や種類も、変わりました。

そして最終的には、「鎮静」と呼ばれる薬に、本当にお世話になりました。

「鎮静」とよく似た言葉で、「鎮痛」という言葉がありますが、これは、日常生活でも聞くことがありますよね。

簡単に言うと、「鎮痛」とは、痛みを鎮めることで、「鎮静」とは、苦痛や不安を和らげること。

痛みという苦痛を取り除く「鎮痛」も、広い意味では「鎮静」に含まれます。

父がお世話になったのは、なかでも「終末期鎮静」と呼ばれるものです。

「終末期鎮静」とは、治療を尽くしても取り得ない患者の耐え難い苦痛を取り除くことを目的に、患者の意識を限りなく低下させる鎮静剤を投与することです。

がん患者の死亡直前の苦痛に対応する緩和ケアとして、位置づけられています。

胃カメラを飲むとき、病院によっては麻酔を使って、ほぼ寝ている状態のまま受けることができますよね。

あれに使われる薬と同じです。

しかし、患者との意思疎通ができなくなってしまうことから、鎮静の実施は、患者や家族、医療チームにとって、極めて難しい選択になっているのが現状です。

深い鎮静は、患者が眠ったまま死が訪れることから、「安楽死に近い医療行為ではないか」という根強い考えがあり、国内でも議論が深まっています。

遺族の中には、生を終わらせることに同意したことを悩み、罪悪感にさいなまれる人も少なくはありません。

実際に「終末期鎮静」を受けるかどうかは、本人の意思はもちろん、家族の思いも十分に考慮した上で、選択することが大切だと思います。

終末期鎮静を受けて

私たちは、父の最期をどのように迎えるのが1番いいのか、ずっと考えていました。

父が入院していた大学病院には、緩和ケア病棟がなかったので、最後は転院することになるだろうと思っていました。

大学病院は、病気を治療する場所なので、治る見込みのない患者さんは、病院に置いてもらえないのです。

それは、1番最初に大学病院を受診した日、つまりがんを告知されたその日に、すでに言われていたことでした。

父はもう、治療という治療は何も受けてはいませんでした。

動かなくなってしまった足のリハビリを、ベッドで寝た状態のまま受けていましたが、左足に血栓ができてしまってからは、そのリハビリすら行えなくなっていました。

ある朝、

「夕方にお話があります。」

と主治医から言われた私と母は、転院の話だと確信しました。

意識混濁が見られるとはいえ、最後まで諦めずに大学病院で診てもらうことを望んでいる父に、どう伝えればいいのか・・・。

私たちは、胸が押しつぶされるような思いで、夕方まで過ごしました。

しかし、話の内容は、更に残酷なものでした。

本当は、私たちの予想通り、緩和ケア施設に移る話をするつもりだったんだそうです。

けれど、その日の血液検査の結果があまりにも悪く、もう父を動かすことが危険だという判断になり、このまま大学病院で「終末期鎮静」を受けながらその時を待つことになったのです。

この時のことは、本当によく覚えています。

父に、「転院のことを言わなくてもいいんだ。」というホッとした気持ちと、「父との永遠の別れがもう目の前まで来ている。」という恐怖で、私の心はぐちゃぐちゃになっていました。

父が初めて「終末期鎮静」を受けたのは、私が自宅へ帰っていたときでした。

母から連絡を受け、私ももちろん同意しました。

父ができるだけ苦しまないように、という気持ちは、母も妹も同じでした。

そして、父本人も、延命治療を望んではいなかったからです。

「次、父のもとへ行っても、もう話すこともできないし、私のことも分からないんだ・・・。」

そう思うと、深い悲しみと寂しさで涙が止まりませんでした。

けれど、父がこれ以上苦しむことはないんだから、これで良かったんだと言い聞かせることで、何とか自分を保ちました。

しかし!

父は、意識がなくなることはなく、眠ってもちゃんと目を覚まし、こちらの呼びかけにも答えてくれたのです!

何と言っているのかは分かりません。

でも、耳はちゃんと聞こえています。

話しかけると、まばたきをしたり、かすかに頷いたり、首を振ったり、何かしらの反応を返してくれました!

苦しそうな状態になる度、薬の量を増やしたり、速度を速めたりしてもらいながら、結果的には、先生の予想を大きく上回り、その後2週間も、父は粘り強く、その命を最後まで全うしたのです。

父の最期

父の最期の瞬間、私は自宅にいました。

前日まで病院に泊まっていたのですが、次女の学校行事があるため、一旦自宅に帰ってきたのです。

母から、血圧が下がってきていると連絡をもらってはいたのですが、まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わず、また、前日に帰ってきたばかりだったので、しばらく様子を見ていました。

しかし、母から届くラインの内容は、どんどん深刻さを増していきます。

いてもたってもいられなくなった私は、次女の習い事のお迎えをママ友に頼み、急遽病院へ向かいました。

車中ですぐに母に電話をかけて、「今、向かっているから!」と告げたとき、母から父が息を引き取ったことを聞きました。

あのときのショックは、どんな言葉を用いても、きっと一生、表現することはできないでしょう。

父の命の灯と共に、私たちの闘いも幕を閉じた瞬間でした。

あれだけ病院に寝泊りし、そばにいたのに、父を看取ることができなかったことは、とても残念でした。

でも、きっと優しい父のことなので、私だけが最期のときに立ち会えたら、妹が不公平だと言って怒るだろうから、姉妹平等にしたんだろうなあ、と思います(苦笑)

父がこの世からいなくなって、4ヶ月半が過ぎ、いろいろなことが落ち着きを取り戻しましたが、いまだにふとしたことで涙が止まらなくなるときがあります。

病気発覚当時は、「父が亡くなっても、いつか笑える日がくるのだろうか?」なんて真剣に考えていました。

でも、今私は、心から笑いながら、毎日を楽しく生きています!

もちろん、楽しいことばかりではないけれど、父を思い出して泣く日もあるけれど・・・、あれだけ密に父と向き合った日々が私の中に確かに残っているから。

あの時間を思い出すことができれば、きっとこれから先も強く生きていけると、そう確信しているのです。



おわりに

父を亡くしてからしばらくして、「父の闘病記録を残しておきたい。」と思い、心の整理をしながら少しずつ書いてきました。

自分の日記帳を読み返したり、母から当時のことを聞いたり、様々な記録を見返しながら、父が懸命に闘った姿を追いかけ、ようやく最期の瞬間を迎えることができて、ホッとしています。

私がこの体験を通して得たものは、本当にたくさんあるのですが、その中でも1番大切だと感じたことは、どんな現実にも向き合う勇気を持つこと。

まず、父の病気を受け入れることから始まり、厳しい現実や、自分の中に湧き上がる黒い感情、弱さ、無力感・・・。

職場にも迷惑をかけたし、娘たちに寂しい思いもさせたし、私自身、家と病院で気持ちの切り替えがすぐにはできず、とても苦しく辛いときもあり・・・。

様々な辛い現実が、次から次へと目まぐるしく襲い掛かってくるような、そんなふうに感じながらの日々でしたが、ひとつひとつ、私なりに向き合い、受け入れ、うまくできない自分を許し、残された時間を父とどう過ごして生きたいか、自問自答しながら前へ進んできました。

でも、それって本当に勇気がいります。

目を背けたくなる現実ばかりがやってくるのですから、逃げたくなって当たり前なんです。

実際、私は2回も逃げてしまいました。

辛い現実を直視できなかったんです。

でも、逃げてしまった後で、「逃げた自分を責めながら生きたくない。父も、私のそんな人生を絶対に望んではいない。」と思い直しました。

勇気を出して、丁寧にひとつひとつ、自分の心と向き合い続けてきたおかげで、父がいなくなってしまった今も、私は笑って生きていられているのだと思います。

それは、あの時間を精一杯、父とも真正面から向き合ってきたからこそ、得られたものでもあると思っています。

病気に限らず、人生には予期せぬ様々な出来事が起こります。

悲しいことも、辛いことも、神様を憎みたくなるようなことも・・・。

でもそんなとき、この経験から得たものが、必ず糧となり、誰かの支えになると信じて・・・、これで父の話を終わります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

【がん患者と娘、家族の歩みシリーズ】

1. 健診で

2. 抗がん剤治療     

3. 放射線治療   

4. 医療用麻薬の使用について

5. がん患者のための相談機関について

6. 第4の治療法「免疫療法」

7. 転移!?結石!?受けられなかったステント抜去

8.  決断!がん遺伝子パネル検査

オハナスタイル公式ライター : ラッキークローバー

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